仏花は、どこまで造花に置き換えられるのか──花屋なりの答えを、自分の言葉で書いてみる

仏花は、どこまで造花に置き換えられるのか──花屋なりの答えを、自分の言葉で書いてみる

こんにちは、GORIです。

先日、花きnoteを書かれている八巻新之輔さんの一本の記事に、頭をつかまれました。テーマは「仏花は、どこまで造花に置き換えられるのだろうか」。哲学の砂山のパラドクスを引きながら、お供え花の境界を問うたものです。

砂山から砂を一粒取り除いても、まだ砂山。もう一粒取っても砂山。では、いつ砂山でなくなるのか。同じように、五本のお供え花のうち一本だけ造花でも、それは仏花でしょう。二本でも、三本でも、たぶん多くの人は違和感を持たない。ではどこで、生花のお供え花ではなくなるのか

八巻さんはこの問いを、「造花は良いのか悪いのか」の議論にはしていません。なぜお供えには生花が用いられてきたのか、その意味を自分たちの言葉で語れるようになることこそが、いま花業界に必要だと書かれています。まったく同感です。同感なので、逃げずに書きます。花屋である私の答えを。

いま、お供え花に何が起きているのか?

現場の実感からお伝えします。夏場の高温、気候変動、生産量の減少。ほおずきやリンドウが十分に確保できない年が、珍しくなくなりました。実際、この夏のリンドウは過去5年平均に比べておよそ4割高の相場でした。

その結果として、造花のほおずきやリンドウを組み合わせたお供え花を見かける機会が増えています。これは品質の問題でも、生産者の努力不足でもありません。供給が不安定になるなかでも、お盆に花を届けるための現場の工夫です。私はこれを責める気持ちは、まったくありません。実際、花が足りなければ、お客さまのお仏壇に何も並ばないことになる。それよりはいい、という判断は、現場として真っ当です。

問題はそこではなく、八巻さんが指摘されたとおり、その変化が少しずつ進むと、誰も境界に気づけなくなるということです。一年に一本ずつ置き換わっていけば、変化はグラデーションになる。気づいたときには、以前とまったく違う姿になっている。そして一度それが当たり前になれば、元に戻すのは容易ではありません。

私たちは、大きな変化には敏感です。ですが、小さな変化の積み重ねには、驚くほど気づけない。

そもそも、なぜお供えには生花なのか?

さて、ここからが本題です。私の答えを書きます。

お供えに生花を使う意味は、「枯れること」そのものにある、と私は思っています。

造花は美しい姿のまま、そこに留まります。手をかける必要がありません。それは長所です。一方で生花は、水を替えなければ濁り、そのままにすれば枯れます。必ず手をかけなければならない

私は、この「手をかけなければならない」という性質こそが、お供えという行為の本体なのだと考えています。水を替えに行く。枯れた花を摘む。新しい花に替える。その一つひとつが、故人のもとへ足を運ぶ口実になっている。花が枯れるから、人はまたそこへ行くのです。

もう一つ。生花はいつか終わります。終わるものを供えるという行為の中に、命はいつか終わるという事実への向き合いがある。永遠に美しいものを供えることと、いずれ枯れるものを供えること。この二つは、見た目が同じでも、意味がまるで違うのではないでしょうか。

だから私は、こう言葉にしています。造花は「留めておくもの」、生花は「通わせるもの」。お供えの花に生花が選ばれてきたのは、それが枯れるからであって、きれいだからではない。

では、境界はどこにあるのか?

正直に申し上げます。本数で線を引くことは、私にはできません。三本ならよくて四本ならだめ、という基準はどこにもない。砂山のパラドクスが教えてくれるのは、境界が存在しないということではなく、境界はあるはずなのに、それを明確に説明することが難しいということです。

ですから、本数ではなく、こう考えることにしました。

その束に、手をかける理由が残っているか。水を替える必要が一本でも残っていれば、その花はまだ「通わせるもの」として働いています。すべてが造花になった瞬間、水を替える理由は消えます。そこが、私にとっての境界です。

これは私が勝手に決めた基準であって、正解ではありません。ですが、基準を自分で持っていなければ、新しい代替品が出てくるたびに判断できなくなる。八巻さんが書かれていたのは、まさにそこだと受け取りました。冊子に書いてある、では足りない。自分の言葉で言えるかどうかなのだ、と。

花屋として、これからどうするのか

お客さまに「造花はだめですよ」と言うつもりはありません。それは押しつけです。夏の暑さでどうしても花がもたないお宅もあれば、お参りに頻繁には行けないご事情もあります。

私たちがすべきなのは、選択肢を減らすことではなく、選ぶときに意味を添えることだと思っています。「この花は一週間ほどで替えどきが来ます」「水を替えに行く回数が、そのままお参りの回数になりますよ」。そう一言お伝えするだけで、生花を選ぶことの意味は伝わります。知ったうえで選んでいただく。それなら、どちらを選ばれても私は納得できます。

静かに進む変化に気づける人間でいたい。そのために、自分の言葉を持っておきたい。八巻さんの問いに、そう答えておきます。

よくある質問(FAQ)

Q. お供え花に造花を使ってもよいのですか?
良い悪いを決める公式なきまりはありません。夏場の高温や供給の不安定さから、造花を組み合わせたお供え花は実際に増えています。大切なのは、生花を供える意味を知ったうえで選ぶことだと考えています。

Q. なぜお供えには生花が使われてきたのですか?
生花は必ず手をかけなければならず、水替えや花の入れ替えのたびに故人のもとへ足を運ぶことになるからです。またいつか枯れるものを供える行為には、命が有限であるという事実への向き合いがあります。造花が「留めておくもの」なら、生花は「通わせるもの」だと私は考えています。

Q. なぜ最近、造花のお供え花が増えているのですか?
夏場の高温や気候変動、生産量の減少により、ほおずきやリンドウなどが十分に確保できない年が増えているためです。供給が不安定でもお盆に花を届けるための、現場の現実的な工夫でもあります。

Q. 「砂山のパラドクス」とは何ですか?
砂山から砂を一粒ずつ取り除いても、どの時点で砂山でなくなるのかを明確に示せないという哲学の問題です。境界が存在しないという意味ではなく、境界はあるはずなのに説明が難しいことを示しています。お供え花が少しずつ造花に置き換わる場面に、この構造がよく当てはまります。

Q. 夏場、お供えの生花を長持ちさせるコツはありますか?
毎日の水替えと、水の中で茎を切り直す切り戻しが基本です。花瓶の内側のぬめりも落としてください。咲き終わった花をこまめに摘むと、残りの花に力がまわります。

問いをくださった八巻新之輔さんに、感謝を込めて。今日も、あなたの一日に緑と花がありますように。

GORI

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